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[矢原館長コラム]牧野富太郎を生んだ江戸時代の本草学

牧野富太郎を生んだ江戸時代の本草学

 牧野富太郎に日本全国の注目が集まる日が来るとは夢にも思っていませんでした。私は富太郎とおなじように、幼いころから植物に興味を持ちました。中学生のころ、分類がまだ解決していない植物があることを知り、未知の植物を研究したいという思いを捨てきれず、植物分類学者になりました。このため、牧野富太郎ブームを自分のことのようにうれしく思います。

 私が中学生のころ、牧野富太郎が書いた植物図鑑よりもっと詳しい植物図鑑が出版されたので、私はそれを使って植物を調べました。では、牧野富太郎はどんな本を使って植物を調べたのでしょうか。実は、江戸時代に何冊もの植物図譜が出版されていました。その歴史をたどると、徳川家康に行きつきます。家康は薬草に興味を持ち、中国で発展した薬草研究(本草学)の本を手に入れて、勉強しました。そして家康はお花畑と呼ばれる薬草園を作り本草学研究を奨励しました。家康の思いはその後の将軍にも受け継がれ、小石川というところに御薬園が設置されました。小石川御薬園は、明治10年の東京大学創設とともに東京大学理学部附属植物園となり、牧野富太郎はそこで植物の研究をしたのです。牧野富太郎は日本各地を旅して植物を採集するとともに、江戸時代後期に飯沼慾斎(いいぬまよくさい)という人が書いた『草木図説』20巻を詳しく調べ、『増訂草木図説』を刊行しました。

 牧野富太郎をはじめとする植物分類学者の研究によって、日本には約6,000種の植物があることがわかっています。しかしまだ新種が見つかります。私は過去3年間に、牧野富太郎のように日本各地を旅して、約100の新種を発見しました。みなさんも、ぜひ植物に興味を持って、身の回りの植物を調べてみてください。もしかすると、新種がみつかるかもしれませんよ。

※画像は、牧野博士にちなんで私と大学院生(当時)の河原孝之さんが「Eupatorium makinoi T. Kawahara & Yahara」と命名した植物です。

[文:福岡市科学館 館長 矢原徹一]